子育てをしていても、教室で子どもたちと接していても、絵筆を持って制作に向かうときでも。
私たちの心を重たくするものの一つが、「誰かと比べてしまうこと」ではないでしょうか。
「うちの子、あの子よりまだ字が下手かも」
「あの作家さんの作品の方が、いいねが多い」
「なんで私だけ、こんなに上手くいかないんだろう」
そんなふうに、ふとした瞬間に心の中に忍び込む「比較」。
でも、そもそも私たちは、誰かと勝ち負けを競うために生きているわけではないのです。
目次
禅語「喜捨」とは
「喜捨(きしゃ)」とは、仏教や禅の言葉で、もともとはお布施や寄付など、自らの財や思いを“喜んで手放すこと”を意味します。
私はこの言葉を、「優劣をつけたがる心を手放す」こととして捉えています。
誰かより優れていたい。認められたい。勝ちたい。
そう思うのは人間として自然な感情ですが、それに囚われてしまうと、自分の本質から遠ざかってしまいます。
比べてしまう心と、向き合う
比較は、ある意味でこの社会の習慣のようなものです。
小学校のテスト、通知表、運動会、進学、就職、キャリア──。
「あなたは何番目?」という問いの中で、私たちは育ってきました。
でも、教育者として、母として、強く感じているのは、
比較は子どもの「意欲」や「自己肯定感」をむしばむ
ということです。
「Aちゃんは上手だけど、Bくんはまだちょっと…」という声かけで、創造力はのびのびと育つでしょうか?
答えは明白です。
表現の世界に「優劣」はなく、それぞれにしか描けない「かたち」がある。
だからこそ、まずは大人が「比べない心」に気づき、切り替えていく必要があります。
アートと比較は、相性が悪い
私はこれまで、3000人以上の子どもたちと一緒にアートを楽しんできました。
その中で、絵を描き始めると、最初はワクワクしていた子が、他の子の作品を見て突然手が止まることがあります。
「○○ちゃんの方が、うまい…」
そうつぶやくその声は、表現する喜びを奪ってしまう魔法のよう。
だからこそ私は、
「自分の線を好きになっていい」
という言葉を何度も届けます。
「この形がわたしらしい!」「この色、好き!」と思った瞬間の、その心こそが、その子だけの「表現」なのです。
こども造形教室での「喜捨」の実践
私の運営するこども造形教室では、作品の完成度よりも、プロセスにどれだけ心を込めたかを大切にしています。
ある日、子どもたちが描いた絵を並べて、発表の時間を持ったときのこと。
一人の子が、「○○ちゃんの絵、すごいね。でも、わたしの色も好き」と笑顔で言ったのです。
その言葉に、私は心から救われる思いがしました。
誰かと比べるのではなく、自分の中にある「好き」を信じる。
それはまさに「喜捨」の実践であり、非認知能力を育む瞬間でもあります。
私自身も、SNSで比べてしまった過去がある
かくいう私も、比べることから自由になれたわけではありません。
Instagramで同じようにアートを投稿している人を見て、「いいな」「私ももっと頑張らなきゃ」と思ったこともあります。
でも、あるときふと、
「このまま“いいねの数”を指標にしたら、私の絵は誰のためのものになるんだろう」
と疑問がわきました。
そこから、「喜捨」を意識し始めました。
数字ではなく、「誰かの心に届くこと」。
そして、自分自身が納得のいく色と線を描くことを大切にしています。
比べないことで、自分の色が鮮やかになる
誰かと比べないということは、自分を甘やかすことではありません。
むしろ、本当の意味で自分を大切にするということ。
絵を描くときも、子育てをするときも、何かに没頭するときも。
「誰かと比べてどうか」ではなく、
「自分が心からやりたいか、誇りをもてるか」
を指針にできたら、人生はもっと軽やかになるのだと思います。
禅語「喜捨」には、そんな深い優しさが宿っています。
この言葉を、今日もそっとポケットにしのばせながら、私は筆を持ち、子どもたちと向き合っています。
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