こんにちは!母画家道Rinです。
今日は、謎も多い俵屋宗達について記事にしようと思います。
俵屋宗達とは?
近世初期に活躍した尾形光琳と並び、称される俵屋宗達だけど、
いつ生まれたかいつなくなったかなど、不明なところが多くあります。
京都で絵画工房「俵屋」を営んでいたのだろうと予想されています。
そこでは、屏風絵や扇絵などの紙製品の装飾をしていたのでは?と言われています。
俵屋宗達には珍しく寺院の装飾
狩野派、長谷川派などと比べると、寺院などの装飾の注文が
少なかった俵屋宗達だけど、珍しく注文を受けた寺院が
養源院[ようげんいん](京都府)
です。
養源院には、俵屋宗達とそのお弟子さんたちが製作した
襖絵12面、杉戸絵8面が残されています。
養源院とは、1594年豊臣秀吉の側室の淀殿が、父である浅井長政の菩提のため創建しました。
一度は火事になり燃えてしまいました。
けれど、1621年、淀殿の妹の崇源院[すうげんいん]の希望で再び建てられたそうです。
崇源院は、二代将軍の徳川秀忠の奥さんだったので、実現できたのでしょう。
大きな権利力を持っていたというのもあるけれど、きっと、お父さん思いの娘たちにだったのでしょうね。
白象図[はくぞうず]
養源院にある「白象図」は、需要文化財でもあり、象が描かれています。
象は、釈迦の脇侍の普賢菩薩が乗る霊獣として描かれることが、多かったようです。
単純化された形や線、色が特徴的ですね。
この他にも、麒麟や唐獅子などの板絵も奉納されています。
象、麒麟、唐獅子など、どれも画面に大きくいっぱいに描くことで、ゆったりとした感じや余裕、重量感などを表現しひています。
まとめ
俵屋宗達の絵の雰囲気は、これ以降もどんどんと進化していきます。
そして
「風神雷神図屏風」などの代表作を生み出していきます。
このような傑作を生み出した俵屋宗達だけど、その伝記は謎も多く、だからこそどんな人物だったか想像も広がるばかりです。
自分の画風を極めていく姿勢を是非、真似したいRinです。